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殿塚・姫塚

写真:殿塚・姫塚

ともに古墳時代の武社国造の時代に作られた前方後円墳。

殿塚は直径86m、姫塚は58.5mあり、特には殿塚は山武地方最大の墳丘墓とされています。

昭和31年(1956)の発掘調査で、姫塚の外周から人物埴輪群が出土し、大王葬送の行列を現しているといわれます。

 

伊能忠敬

写真:伊能忠敬

世界的な地理学者・伊能忠敬は、延享2年(1745)正月、山辺郡小関村(現九十九里町)に誕生、故あって11歳で父の生家である小堤村の神保家に帰り、勉学にいそしんだと伝えられます。

宝暦12年(1762)、佐原の伊能家を継いで、晩年、江戸に出て天文学・地理学を修め、日本全土の測量に従事し、やがて、「全日本沿海実測図」を完成させ、文政元年(1818)73歳で没しました。

 

町原大銀杏

写真:町原大銀杏

樹齢500年と推定される大銀杏。

その幹のまわりは約6.5mを測ります。

根元に垂れる「樹乳」は、女人信仰の対象ともなっています。

 

坂田城址

写真:坂田城址

戦国時代末期の城郭遺跡。

15世紀末、千葉氏系の武士団の根拠地となり、後に三谷・井田両氏の居城となり、天正18年(1590)小田原の後北条氏の滅亡とともに落城しました。現在、台地上の山林中に、曲輪・土塁・空堀などが残っています。

 

横綱・小錦八十吉の墓

写真:横綱・小錦八十吉の墓

慶応3年(1867)10月、土地相撲の大関だった岩井弥市の長男として琴平神社に近い横芝光町上町に生まれました。

出世は早く、入幕以来大関になるまで一度も負けないという快記録をつくり、横綱昇進年齢も当時としては異例の若さでした。

現代のスピード相撲の先駆的な取り口と、色白で愛嬌のある風貌から人気も抜群で錦絵が飛ぶように売れ、小錦織まで生まれたといいます。

優勝7回、49歳で没しました。(上町共同墓地内)

 

栗山平和公園

写真:栗山平和公園

戦時中、旧陸軍の飛行場であったことから恒久平和の願いと環境の大切さを訴え建設されたもので、入り口の"人と時の柱"上部の球により太陽を表し、円を基調とする"語り部の館"周辺のシンボルゾーンにより地球を、"平和の壁"天端の半球により月を表すことにより、全体で宇宙の姿を表現しています。

また、これにより調和のとれた地球環境の大切さと世界平和の尊さ、強いては、宇宙を含む全ての世界の平和を表現しているほか、園内に設置された各施設についても、それぞれ平和と環境の大切さを表すように造られています。

 

四社神社

写真:四社神社

平安時代の上総介平良兼との関係を伝える旧郷社。

現在の本殿は元禄元年(1688)11月の造営とされ、九十九里地方屈指の社殿建築と評価されています。

 

海保漁村誕生の処

写真:海保漁村誕生の処

寛政10年(1798)に海保修之の三男として横芝光町北清水で生まれました。儒学者太田錦城の門下生となり、やがて第一人者となりました。

師の勧めで江戸下谷に塾を開き、後に佐倉藩主堀田正睦に中国の孔子・孟子などの学問を講義するようになります。

安政4年(1857)、幕府の医学館直舎の儒学者となり、門弟には政界財界の渋沢栄一や鳩山和夫など多数の著名な人物がおります。

慶応2年(1866)69歳で没しました。

 

無量寺六地蔵

写真:無量寺六地蔵

屋形無量寺の山門近くにひっそりと建つ6体の地蔵尊。

元禄11年(1698)近隣の網主が寄進したもので、古くから女人の信仰を集めたと伝えられています。

 

鬼来迎

写真:鬼来迎

鬼来迎は演者はもちろん、舞台の設定から衣装整備まで、すべてが地元住民の手により行われます。平成3年には東京国立劇場でも上演され、「これは素人の芸ではない」と多くの人々を驚愕させました。劇は地獄の責苦を骨子とした「大序→賽の河原→釜入れ→死出の山」の四段と、広済寺建立縁起を物語る「和尚道行→墓参→和尚物語」の三段、全七段からなり、上演時間は約1時間半です。

写真:鬼来迎

舞台下手の櫓の陰から突然響きわたる、鐃鉢(にょうはち)の音と「ホッホッホー」の奇声。うだるような暑さの中、ざわめく見物客たちがはっと顔を上げると、いよいよ地獄の幕があく。横芝光町に古くから伝わる「鬼来迎(きらいごう)」は、因果応報(いんがおうほう)、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)を説く、全国で唯一の古典的地獄劇で、その起源は約八百年前、鎌倉時代初期にまで遡るといわれ、昭和51年には国の重要無形民俗文化財に指定されています。

日 時 毎年8月16日 おおむね午後3時ころから
※お盆の行事として演じられるため、正式な開演時刻は決まっていない。       
場 所 広済寺
交 通
アクセス
自動車利用
銚子連絡道路横芝光ICから車で約5分
電車利用
JR総武本線横芝駅下車 タクシーで約15分

 

地獄譚

写真:地獄譚

■大序(だいじょ)
場は地獄の閻魔(えんま)の裁き所。閻魔大王(えんまだいおう)、倶生神(ぐしょうじん)、鬼婆(おにばば)、黒鬼(くろおに)、赤鬼(あかおに)、が次々と登場し、亡者の生前の罪を判じる。「娑婆国中(しゃばこくちゅ)の大悪人」と判が下ると、鬼たちが亡者を連れ去る。

 

写真:地獄譚

■賽の河原(さいのかわら)
子供の亡者たちが石を積んで遊んでいるところへ、黒鬼、赤鬼が出てきて捕らえようとする。そこへ地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が現れ、鬼を打ち払って亡者たちを救い出す。

 

写真:地獄譚

■釜入れ(かまいれ)
場面は一転し、地獄の釜ゆでの場。逃げ惑う亡者を鬼婆が釜に投げ入れ、鬼たちとともに火を煽ぎ薪をくべる。「首でも切って食らおうか」と、鬼たちが亡者を吊るし上げて退場。

 

写真:地獄譚

■死出の山(しでのやま)
亡者は鬼たちに、火が飛び出す椀を持たされ、死出の山へ追い上げられた末、大石で押しつぶされ、下へ突き落とされる。口から血を流して苦しむ亡者。そこへ観音菩薩(かんのんぼさつ)が現れて、亡者を救い鬼と問答を交わして悠々と退場する。鬼は悔しがって亡者の卒塔婆を抜き取り、「さては成仏いたせしか」とそれを投げ捨て怒号を発する。

 

最初の「大序」の場面で、登場する鬼婆に赤ちゃんを抱いてもらうと健康に育つ、という言い伝えがある。毎年「地獄の釜の開く日」の月遅れの8月16日、鬼来迎の演じられる広済寺境内は、わが子の健やかな成長を願う両親、そして全国から集まる見物客で華やかににぎわう。

 

広済寺縁起譚

■和尚道行(おしょうみちゆき)
虫生の里のとある辻堂。夜道に迷った石屋和尚が、「妙西信女(みょうさいしんにょ)」と言う名のまだ新しい墓に気づく。そこで和尚は、鬼が娘の亡者を鉄棒で責める様を見るが、夜明けとともに鬼も娘もかき消える。

 

■墓参(ぼさん)
娘の父母である椎名安芸の守(しいなあきのかみ)と顔世(かおよ)が、家来を従えて墓参りに訪れる。「折り入ってお話したし」と言う和尚を、夫妻は屋敷へ伴う。

 

■和尚物語
和尚は娘の苦しむ様を語り、安芸守夫妻はその夜を辻堂で過ごす。地獄での娘の姿を見て嘆き悲しんだ夫妻は、娘の成仏と娘を地獄に落とした自らの罪の消滅を祈り、和尚の教えに従って、広西寺(広済寺)の建立を約束する。
※広済寺建立縁起を物語る「和尚道業-墓参-和尚物語」の三段は、現在上演されておりません。

 

仏像

■仏像(県指定文化財)

写真:仏像
鎌倉時代には、椎名氏の支配のもとで、浄土教思想の広がりによる阿弥陀如来信仰が開花しました。町内にはそのころに開かれた寺社が多く、県の文化財指定を受けている4つの仏像も、鎌倉~室町時代の作と考えられています。隆台寺と親善光寺の「銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像」はともに善光寺様式の三尊像。阿弥陀如来の左脇が観音、右脇が勢至薩摩です。観音院の「木造阿弥陀如来座像」は、中世の典型的な来迎阿弥陀如来座像。また福秀寺の「木造薬師如来立像も古い様式を備えた鎌倉時代の作品で、収蔵庫に大切に保管されています。

 

■成田山不動尊上陸記念碑

写真:成田山不動尊上陸記念碑
天慶の乱(平将門の乱)の時、将門調伏の祈とうのため、寛朝僧正が京の都から船で運んだ不動明王像(成田山新勝寺の本尊)が上陸したところです。毎年5月27日を御本尊上陸記念日と定めて法要を営んでいます。

 

■波切不動尊

写真:波切不動尊
寛朝大僧正御遠忌1000年、成田山開山1060年を記念し、平10年4月に波切不動尊像が建立されました。

 

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